江原素六先生

沼津西高校創立者、江原素六先生

 江原素六は、天保13年(1842)1月29日、幕臣江原源吾の長男として、江戸角筈五十人町(東京都新宿区)に生まれた。幼名は鋳三郎。
 素六の少年時代、家計は極めて苦しく、父は内職に追われ子供の教育に意を注ぐ余裕もなかった。しかし伯母(源吾の姉)小野のき子の助力によって、嘉永5年(1852)一家は悪い環境の角筈から四谷愛住町に移転し、同時に素六も池谷福太郎塾に入門し真当な教育を受けることができるようになった。


 慶応4年(1868)5月、慶喜の跡を継いだ徳川家達は、駿府七十万石に移封されることになり、多くの旧幕臣もそれに従い駿河・遠江・三河に移住することとなった。
 その際、江原は沼津に住むこととなり、沼津兵学校の設立準備を行った。兵学校の管理・運営を担当する一方、沼津商社会所を設立し、金融業と回漕業を営み、藩財政を豊かにすることによって兵学校の維持を堅固ならしめようとした。しかし、明治4年(1871)江原が明治政府による欧米視察のため渡米中、日本では廃藩置県が断行され、沼津兵学校は政府兵部省の管轄に移された。翌5年(1872)5月には東京の陸軍兵学寮に合併・吸収されることになり、沼津兵学校は名実ともに消滅した。
 沼津兵学校廃止後も沼津に居残り、地域にこだわり続けた江原は、士族授産や殖産興業といった産業面での仕事とともに、教育の面での仕事が大きかった。それは、沼津兵学校の遺産の継承であるとともに、教育者江原のライフワークの出発点でもあった。


 明治22年(1889)キリスト教の伝道のかたわら大同団結運動に参加していた同時期、江原は東京のカナダ・メソジスト派のミッション・スクール東洋英和学校の幹事に就任、衆議院議員として中央政界に乗り出して後の26年(1893)には校長になった。東洋英和学校は、明治17年に東京麻布鳥居坂に設立された学校で、神学科と普通科に分かれていたが、江原は28年(1895)普通科を麻布中学校として独立させ、上級学校への進学に力を入れるなど経営に努力した。


 草創期の麻布中学校に力を尽している同時期、江原は郷里沼津の学校の設立にも関与することとなった。明治32年に公布された高等女学校令に対応し、駿東郡下にも高等女学校を設置しようという動きが起こり、34年(1901)私立駿東高等女学校が沼津町に開校した。設立・経営の中心は郡長や町村長であったが、江原は顧問として創立委員のひとりに名を連ねた。事実上駿東郡町村全体の負担によって経営されたにもかかわらず同校が私立とされたのは「お上」の制約を受けない私学の教育こそ理想とした江原の影響が一因としてあったと考えられる。
 同校は大正8年(1919)には郡立に移管され、同11年(1922)には県立沼津高等女学校となり、現在の県立沼津西高等学校に至ったが、私立時代までは江原の影響力が大きく、国家主義的な良妻賢母論に捉らわれない自由で進歩的な女子教育が行われた。初代・四代校長森山信規は星亨の書生やアメリカ留学経験をもつ人、三代校長伊東義利は麻布中学校第1回卒業生で沼津教会の信者だったが、この人脈からもわかる通り、江原が顧問や設立者(明治36年~大正8年)だった時代には、自由主義やキリスト教的雰囲気が満ちあふれていた。



『江原素六生誕150年記念誌』より抜粋

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