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学祖「江川担庵」と校訓「忍」















    韮山高校学祖「江川坦庵」

江川坦庵(えがわ たんなん 1801-1855)

1801(亨和元)年韮山代官の子として、江戸屋敷で生まれる。幼名芳次郎、名は英龍、宇は九淵、号坦庵。武士の習いとして、和漢の学を佐藤一斎に、書を市川米庵に、詩は大窪詩仏に、絵を大国士豊や谷文晁に、剣を岡田十松に、また蘭学、西洋砲術などを学ぶ。24年に代官見習となり、35年代官職を拝命し、太郎左衛門を襲名した。35歳の英龍は積極的に殖産興業、代官職制の改革などを行ない、38年には所領5万石から15万石へと拡大した。39年江戸湾海防測量を命じられる。42年高島秋帆から、西洋砲術免許皆伝を受け、幕府砲術師範となる。53年幕府の勘定吟味役に進み海防に参画する。韮山に反射炉築造に取り掛かり、没後2年後に完成することになる。55年、55歳で逝去。坦庵は内憂外患の多難な時代に、視野を広く海外に求め、パンの製造、種痘の実施、日本の将来を展望して海防への建議書を提出、また官内にあっては、江川塾を創設して、新進の学徒を育て、自らも寸暇を惜しんで、入木丹青の芸術境に遊んだ。
校訓「忍」

学祖・江川坦庵公の座右の銘より「忍」が韮山高校の校訓

「自ら思考し、自ら実践する」を重点目標として「文武両道」の精神を貫いている。
「龍城」とは?

韮山高校の東側にある高さ約50mの山を「龍城山」という。これは、今から約500年前に戦国大名北条早雲が伊豆支配の根拠地として整備した韮山城の別名を「龍城」と呼ぶのに因んでいる。(山の形が龍のようになっているため。)1600年の関ケ原の戦いの後に韮山城は廃城となったが、その後、1873年に現在の韮山高校の前身が創立されて以来、校舎がこの韮山城跡の一角に建てられているので、韮高の校歌などに「龍城」という言葉が使われている。