地生学の国語コースでは、地域の伝統文化について学ぶ学習をしています。その授業の一環で、二学期をかけて、「地域に残る民話を調べる」探究活動を行いました。伝承していかなければ、廃れ忘れられてしまうかもしれない民話を調べる中で、地域の方々とも関り、伝承していく難しさを知ることができました。今回は、中川根にある智満寺に伝わる「信州猫檀家」という民話について調べた結果を報告します。
「信州猫檀家」 むかし、応仁の乱が終わって数十年たった明応(1492年~1500年)のころ、智満寺の崇芸和尚さんという方が一匹の猫を飼っておりました。
そのころ、この地方が飢きんにみまわれて、人々の食糧がとぼしくなり、困ったことになるかもしれないと、村人たちは心配するようになっておりました。
ある日、和尚さんは、そのことを猫に言い聞かせました。「人間でさえたいへん難儀しているのだ、お前には本当に気の毒だけれども、近所の人々の手前、食べるものをやることもできなくなるだろう。今のうちに、どこか食べ物のある所に行きなさい。ぐずぐずしていると、だんだん体が弱ってきて、しまいには歩くこともできなくなりますよ。わしのことは心配しなくてもいいから、さあ、行きなさい。」と言ってと寺から猫を放してやることにしました。和尚さんの顔を、じっと見ながら聞いていた猫は、やがて、うなずいて、「和尚さん、長い間、かわいがっていただいて、ほんとうにありがとうございました。このご恩は一生忘れないでしょう。いつか必ず恩返しをしたいと思います。いつになるかはわかりませんが、その時まで、どうかお達者でいてください。」と言って、智満寺から立ち去っていきました。
それから、何年かたちました。猫は、信濃国大河原村に住むようになりました。大河原村は、赤石岳の西方にあたる大変山深い土地で、上長尾からほぼ北西にあって赤石岳の西方にあたる大変山深い土地で、上長尾から直線距離にして五十キロメートル以上ある遠い所でした。
そのころ大河原では、名主(村の世話をしてくれたり代表になってくれる人)の娘さんが亡くなって、村中の人が集まり、香松寺というお寺で、お葬式をしておりました。その時、突然空から真っ黒い雲がおりてきて、娘さんの棺をつつんでしまい、むくむくと空へ昇っていってしまいました。みんなびっくりしてしまいました。あれよ。あれよ。という間の出来事で、どうすることもできませんでした。あまり不思議な出来事だったので、棺を調べてみますと、中はからっぽで、娘さんは煙のように消えてなくなっておりました。葬式は大騒ぎになってしまいました。
その時、どこからともなく、猫が現れました。そして、恐れげもなく和尚さんや主だった人たちに向かって言いました。
「みなさん、思いがけず大変気の毒なことになりました。これではお葬式をだすこともかないますまい。かといって、このままでは、娘さんも成仏できないでしょう。娘さんのなきがらを「魔もの」から取り戻す方法は、たった一つしかありません。それは、遠江国山香庄のずっと東のはての河根と申す所に、智満寺というお寺があります。
その和尚さまは、人なみすぐれて修業をつんだ、たいへん徳の高いなさけ深いお方です。和尚様の法力には、「魔もの」も、逆らうことはできないでしょう。必ず娘さんを取りもどしてくれるにちがいありません。一日はやければそれだけ早く娘さんの霊魂は救われるでしょう。みなさん、迷っている場合ではありません。お願いすれば必ずおいでくださるお方です。」それだけ言うと猫はその場から立ち去って行きました。
名主さんたちがさっそく智満寺へ来て、和尚さまにお願いし、休む間もなく大河原へ案内しました。
大河原についてみると、村の人たちは不安そうな顔をしていました。みんな「魔もの」を恐れている顔でした。
和尚さまは無言で祭壇の前へ進み、正面に着座し、静かに経を唱えました。その声は次第に高まってすみずみまでよく伝わりました。それによってまわりの人々の不安な気持ちもだんだんと消えていきました。
どのくらい時間がたったのでしょうか。ふたたびもとの静けさにもどるように、お経は終わりました。
不思議なことに娘さんの亡がらは、もとの姿のままで安らかに棺の中にもどっていたそうです。
そいうことがあって、大河原村の香松寺は、その時から智満寺の末寺になったそうです。香松寺には「香松寺記」という記録がありますが、それを見ると、簡単に崇芸和尚さま「中興の開山」と記してあり、この出来事が文亀元年(一五〇一年)であったことをしることができるということです。
この時から、かれこれ四九一年の長い間、上長尾の智満寺と信州の香松寺との交わりが続いているとのことです。
(「中川根のむかし話」発行昭和六三年三月一日 中川根のむかし話編集委員会)
私たちは11月28日の夕方に生徒4名と先生1名で智満寺に伺い、住職さんにインタビューをしました。
<インタビューの内容>
① まず智満寺の歴史について教えてください。なぜこの場所に創建をしたのでしょうか。
→天台宗の教えをこの地域に広めるために、この地域に創建されたと言われています。平安末期の1171年ごろに作られたといわれていて、お寺にある千手観音はその時代のものです。
② なぜ、途中で曹洞宗に改宗したのですか。
→これは推定ですが、ここのお寺が一時衰えたところに曹洞宗の和尚さんが入ってきたからではないかと思います。当時の人は改宗というほど厳密には考えてなかったのではないかと思います。
③ 次に信州猫檀家の民話について教えてください。民話の中で登場する和尚さんは何代目の方ですか。
→民話の和尚さんは二代目で伝夫宗芸という名前でした。
④ 信州・香松寺とのかかわりはまだ続いていますか
→続いています。信州の香松寺は、宗芸和尚が布教するために作った子ども寺とされています。江戸時代までは、行き来も頻繁でした。その後、行き来は少しずつ減少し、住職が交代するときにあいさつするようになっていきました。 しかしその後、道が整備され往来が簡単になったためだんだん交流が増え、今でも親子のようによく交流をしています。
⑤ 実際のところ、交流するきっかけになった理由は、どんな理由ですか。
→猫の話は人間が現実にさせたことで、あくまで仏教の教えを広めるために、交流を始めたのだと思います。
住職さんにはお忙しい中、長時間にわたってインタビューに答えていただきました。未だに、信州の香松寺との関係が続いていることに驚いたと共に、廃れることなく続いていることに嬉しい気持ちにもなりました。また、川根地域のお寺と智満寺の関係性など、専門的なこともわかりやすく教えていただき勉強になりました。
インタビューの中で、「猫の民話が残っているために、猫をかわいがってくれるだろうと思い、猫を捨てていく人がいて困っている」という話もありました。確かに、インタビュー中にも、猫の鳴き声が聞こえてきました。お寺に猫を捨てていく人がいるということに非常に驚き、また、民話がそのような影響を与えているということにも驚きました。
*インタビューの様子*
*現在の智満寺の様子*