浜名高校 定時制の課程
 
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令和5年度3学期終業式に寄せて
 ほんとうのことなら多くの言葉はいらない
 野の草が風にゆれるように
 小さなしぐさにも輝きがある

 私が大切にしている詩人の星野富弘さんの詩の一節です。先日の卒業式、私は一人ひとりに卒業証書を渡しましたが、何度も胸に込み上げるものがありました。私の前に立つ卒業生全員に「ほんとう」を感じ、その立ち姿が輝いていたからです。

 皆さんの日常にもしばしば「ほんとう」を感じました。皆さんは各々大変なものを抱えながら毎日登校し、授業や様々な学校行事に前向きに取り組んできました。そして、皆さんを懸命に支える先生方にも、いつも「ほんとう」を感じていました。

 その「ほんとう」は志願者にも伝わっていたと思います。皆さんの学校生活を実際に見学し、ここなら安心して学んでいけると感じたのだと思います。そして、浜名高校の定時制は、皆さんと先生方のおかげで「選ばれる魅力ある学校」になりました。この春の入学試験では定員40人に対して49人が志願してくれました。

 令和5年度は本日をもって幕を閉じます。そして、あと2週間もすれば、皆さんは学年を1つ上げて令和6年度がスタートします。そして、40人の1年生が本校に希望を抱いて入学して来ます。改めて本校の校歌を作詞した三好達治氏が、校歌に込めた浜名高生への「ほんとう」の思いを掲げます。

 志はるかなれこそ 若き日を かくこそ惜しめ

令和5年度卒業式に寄せて
 3月15日(金)に令和5年度卒業式を挙行しました。式辞の一部を抜粋して紹介します。

 ああ春はわれらの呼吸をふかくし 春はわれらの心をふかくする
 ながいながい冬の日の不如意の後で 堅い氷をおし破つて帰ってくる春の日は
 われらの心をのびのびと 今日の烟つた野山の間へ 天の一方へ解き放つ
 令和6歳は、能登半島で起きた大きな災害で幕を開け、季節外れの暖かさと厳しい寒さの落差で、心穏やかならぬ冬となりましたが、菜種梅雨を思わせる長雨を経て、冒頭の本校校歌作詞者の三好達治が詠う「春の日の感想」の一節のように、春の到来と新たな旅立ちを連想させる日和となりました。卒業生24名の皆さん、御卒業おめでとうございます。3年間の皆さんの努力と研鑽を心から讃えます。

 さて、本校が所在する浜北の地は、かつて遠州織物の一大生産地であったことに異論を差し挟む余地はありません。その起源は、戦国期に三河から伝来し、江戸時代を通して当地の特産品となりました。特に、貴布祢の和泉屋は、浜北全域の織物製品を取り扱い、笠井の商人と共同して「笠井縞」後に「遠州縞」と称するブランドの基礎を築きました。明治以降、「遠州縞」はその品質に加えて当地の人々の営業努力によって全国区となり、昭和の高度成長期を支える産業の中核となるまでに成長しました。こうした発展の要因として、当地の人々の品質向上に向けた弛まぬ努力、丁寧で確かな技術の継承、マーケティングの充実等が挙げられます。また、これを支えたのが、学制発布後まもなく男女を問わない初等教育の充実を図った当地の教育力の高さでありました。この延長線上には、本校のルーツである「北浜裁縫女塾」の開校も位置付けることができます。この様な中で当地の人々が大切にしてきた理念や資質は、本校の教育にも脈々と受け継がれ、勤勉・誠実で社会に有用な浜名高生を世に送り出すことにつながっていると考えています。

 思えば、皆さんは、新型コロナウィルス感染症拡大の只中で本校に入学し、2年半は、様々な制約の中で学校生活を送ることを余儀なくされました。そして、3年生の後半以降は、コロナ禍であることを意識しながらも、本校定時制の新たな在り様を模索する、大きな転換点となる1年数か月を送りました。
 そのような中で、仕事で疲れた体でありながら元気に登校してくる姿、満面の笑顔を浮かべて始業前に友人と歓談する姿、前向きに授業に取り組みつつipadを駆使して知識を深めようとする姿、単位習得のため真剣に定期テストに臨む姿、これまでの生活を振り返り自分の言葉で発表する姿、仲間と笑いながらボーリングに興じる姿、合同文化祭の精一杯のパフォーマンスで聴衆を魅了する姿、自らの苦悩を教職員に切々と語る姿、慣れない面接練習に緊張した面持ちで受け答えをしている姿、校長室で自らの高校生活と未来への思いを語る姿などを、私は実際に目にして来ました。そして、皆さんが本校で過ごす時間を本当に大切にしていることを実感し、併せて定時制教育の意義を再確認いたしました。皆さんの頑張りに対して、この晴れの日に、お礼と拍手を送りたいと思います。 

 ところで、本年1月23日、アメリカの科学誌『原子力科学者会報』は、世界がどれほど破滅の危機に近づいているかを真夜中までの残り時間で表す「終末時計」において、過去最短の「残り90秒」と発表しました。東西の冷戦が終結した平成3年が「残り17分」であったことを思えば、昨今の国際関係や核問題に加えて気候変動など人類の存在を脅かす脅威は看過できないほどに高まっています。また、国内に目を向ければ、昨年の日本の名目GDP(国内総生産)がドイツに抜かれて世界4位に転落したことが2月に発表されるなど、今後の日本の行く末を不安視させる報道が相次いでいます。 一方で、令和3年後半以降、サービスを中心とした個人消費や、好調な企業収益を背景として設備投資が持ち直すなど、内需を中心に緩やかな景気回復を続け、先月末には東京株式市場で日経平均株価が史上最高値(さいたかね)を更新したと報じられました。また、大谷翔平選手の二刀流やワンピース・鬼滅の刃に代表されるアニメなど類を見ない日本人や日本文化にも世界の注目が集まっています。加えて、皆さんと同世代を対象に調査したOECDによるPISA(生徒の学習到達度調査)2022の結果によれば、日本の若者は数学リテラシーで1位、読解力で2位、科学的リテラシーで1位となって、その水準の高さを世界に示すなど、未来に明るい兆しをみせる側面もあることを忘れてはなりません。

 このように社会は限られた側面だけでは判断できず複雑化の様相を呈していますが、遠州織物を日本の基幹産業に育て上げた先達のDNAを受け継ぎ、転換点にある本校での4年間の学びを経た皆さんなら、柔らかな発想と困難に負けない強い意志を持ってより良い未来を拓き、社会に参画できる人材となることを確信しています。感染症、自然災害、国際紛争など困難が相次ぐ21世紀の社会で、皆さんのような活力ある若者が多方面で活躍し、先ほどの「終末時計」の針を戻す原動力となることを、世の中は大いに期待しています。
 結びに、本校創立111年で初めて卒業証書に名前を刻んだ先輩として、皆さんの人生に幸多からんことを強く願い、式辞といたします。

令和5年度3学期始業式に寄せて
 元旦の夕方に発生した「能登半島地震」につきましては、大きな被害が出ており、心を痛めるばかりであります。改めて、今あるこの生活が当たり前ではないことを認識するとともに、皆さんの前でこうして話ができることに感謝しつつ3学期に望みたいと思います。

 さて、今日は、私が発掘調査をする機関に出向していた30年前の苦い体験談を披露したいと思います。

 浜松市の西南部にイオン志都呂店という大規模ショッピングモールがありますが、このもう少し東側に新川という二級河川が流れています。この辺りには「角江遺跡」という弥生時代の大集落がありました。私は、短期間ではありますが、この遺跡の発掘調査に携わりました。

 私が調査に当たった頃は、ちょうど当時の川の跡を調査しているところでした。河川の跡なので、川底には流木、廃棄された土器や木器など様々なものが沈んでいました。その中に、たっぷり水分と泥を含んだひときわ大きな木の幹と思しき遺物がありました。動かすのも一苦労で、私は心のどこかで、この木の幹もどきを取り上げて整理する意味を疑問視して、粗略に扱ってしまったように記憶しています。

 間もなく、私は他の遺跡の調査に転属となって角江遺跡を離れたのですが、しばらくして一緒に調査に当たっていた職員から、例の遺物を丁寧に整理してみたらただの木の幹ではなく透かしの入った立派な木の臼であることを聞かされました。やがて、この臼は貴重な文化財であることが判明し、新聞の一面に掲載されたり、東京の国立博物館で展示されたりしました。そのうえ、今年度から本校で使用している「日本史探究」の教科書にも掲載されています。

 あの頃のことを振り返ると冷や汗が出ます。当時の「知ろうとしない」「観察しようとしない」私の姿勢は、危うく貴重な文化財を闇に葬ってしまうところでした。この事実から、偏見や固定観念による判断が、いかに真実を捻じ曲げてしまうものかを思い知りました。ですから、私は本校の「日本史探究」の教科書を見るたびに「自戒の念」が込み上げてくるのです。

 このことは、人間にも当てはまることだと思います。皆さんは自分自身をしっかり観察しているでしょうか。また、他者を偏見なく見ているでしょうか。ましてや風評で判断していることはないでしょうか。そして、「どうせ自分はこんなもの」とか「あの人はこういう奴に決まっている」とか思っていないでしょうか。皆さんは、一人ひとりが個性豊かで貴重な存在であり、様々な可能性を秘めています。自分の偏見や固定観念で勝手にその可能性を葬り去ることなく、しっかり自他のありのままの姿を直視して、自己を磨いて欲しいと思います。

角江遺跡出土の木臼(静岡県埋蔵文化財調査センターHPより転載)

令和5年度2学期終業式に寄せて
 先日、放映中の映画「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」を観に行きました。この場でネタばらしをすることは避けますが、若い人達が戦争に関心をもってもらえることはありがたいことだと思いますし、劇中で今の高校生が特攻隊のことを率直にどう思っているのかも垣間見えてよかったです。そこで、今日は「浜松と太平洋戦争」について紹介してみたいと思います。

 浜松は、明治の末年から昭和の初年にかけて積極的に軍隊を誘致していました。その結果、現在の静岡大学浜松キャンパスや和地山公園の辺りには「陸軍歩兵67連隊」、現在の本田技研浜松工場及び航空自衛隊浜松基地付近には「陸軍飛行34連隊」並びに「陸軍飛行学校」が置かれ、軍都となっていました。この場では、太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった昭和19年(1944)以降、この浜松で何が起きていたのかを中心に皆さんにお伝えしたいと考えています。

 まずは特攻隊です。この人命を無視した作戦の、陸軍におけるほぼ最初の部隊は、この浜松で編成されました。すなわち陸軍飛行学校の教官を隊長に「富嶽隊」という部隊が結成され、フィリピンへ出撃していきました。以降、多くの部隊が当地で編成されたり、戦地に出撃したりしました。また、舘山寺温泉街では、舘山寺山下にある旅館を軍が接収して研究施設としました。ここで研究開発を進められていたのは、現在のトマホークミサイルのような兵器で、通称「丸ケ」と呼ばれていました。さらに、台地上には「三方原教導飛行団」と呼称する部隊が置かれました。ここでは毒ガスの研究を行っていました。こうした兵器は、来るべき「本土決戦」に向けた準備として行われていましたが、いずれも人としての倫理観を疑う所業だったと個人的には考えています。

 戦争は誰も幸せにしません。今の皆さんの生活も平和でなければ成立しないのです。この世界を見渡せば、いまもあちこちで戦争や紛争が起き、皆さんと同じ世代の人たちの学ぶ権利や一度しかない青春時代が侵害されています。ですから、来年こそ1日でも早く誰もが平和に暮らせる日が来ることを祈ります。


左:飛行学校旧本部庁舎(空自浜松基地内)中:34連隊旧将校集会所(本田技研内)右:トーチカ跡(半田山)

令和5年度2学期始業式に寄せて
 夏休み期間中、私は夏の甲子園大会で昨夏優勝、今夏準優勝に輝いた仙台育英学園高等学校の須江航監督の講演をうかがう機会を得ました。須江監督は、昨年の優勝インタビューで「青春って密」という言葉を発して時の人となり、今年は敗戦の弁で「人生は敗者復活戦」という名言を残しました。今日は、須江監督の講演の中から、皆さんにお伝えしたいメッセージを紹介したいと思います。

 須江さんは、埼玉県の山間部の集落で育ち、子どものころから野球に親しみ、中学校時代には甲子園で活躍することを夢見る少年となりました。高校に進学するにあたり、宮城県の全国大会が東北高校と仙台育英高校に集中していることに注目し、自ら仙台育英高校への進学を決めて野球部に入部しました。しかしながら、入部後2日と掛からないうちに部員と自分とのレベルに大きな開きがあることに気付きました。自分の記憶では、自身がプレーヤーであると意識したのは高校3年間で僅か1回だけだったそうです。残りの期間は、グランドマネージャーと用具係として送りました。須江さんは、この挫折感がその後の人生に活きたと話されました。

 須江さんが野球部の監督となり、指導上大切にしたことは言葉です。選手としてフィールドに立っていない彼は、技術論や経験論で指導しても通じないと考え、部員たちに「伝わる言葉」で話すことを心掛けたそうです。「伝わる言葉」とは、相手が聞きたいことや相手が求めている内容であります。人は欲しいものしか欲しがらないので、とにかく選手の話に耳を傾けて彼らが求めるものを見つけ出すことに専心しました。

 そんな毎日の中で、須江監督は、選手が成長していく姿を実見することを通じて人が成長する要素を見出していきました。ここでは3つ紹介します。第1は「情熱と素直さと粘り強さと」です。素直さとは、柔軟性です。そして柔軟性とは、意見や考えの違いを面白いと思えることです。粘り強さとは、成長が見えるまでやり切ろうとする持久力のことです。そして最後は情熱=気合です。第2は「挫折や失敗から学ぼうとする気持ち」です。学ぶとは、自身の生活の角度を1度返る取り組みをすることです。第3は「短所に丁寧に対処すること」です。丁寧な対処とは自己を理解することです。

 この須江監督の講演をうかがった後、私は生徒の皆さんの顔が浮かんできました。なぜなら、皆さんがここで紹介した成長の3要素を、すでに実践しているのではないかと感じたからです。そう感じたきっかけは、1学期に行われた校内生活体験文発表会です。ある3年生の生徒は、学業とアルバイトの両立を通じて「情熱と素直さと粘り強さと」を身に付け、自身の成長を実感しています。ある4年生の生徒は、3年次の苦しい日常生活の中で挫折を感じていましたが、自身の生活の角度を1度(1度以上かも知れませんが)変える取り組みをする中で、現在は卒業後の自分をしっかりと見据えています。もちろん、その過程には周囲のクラスメイト、先輩、先生方の助言や支えがあったことを忘れることはできません。例に挙げた二人だけではなく、ここにいる全ての皆さんが、事の大小はあっても先ほどの3つの要素を実践し、日々成長しながら今ここにいると私は確信しています。

令和5年度1学期終業式に寄せて
 1学期の終業式を皆さんとともに迎えることができ、大変うれしく思います。まずは、皆さんの努力と成果に心からお祝い申し上げます。1学期は新しい学年のスタートでありました。新しいクラスメートや教師との出会いがあり、新たな環境に馴染むことも必要でした。その中で、皆さんはお互いを思いやる心を持ち、助け合いながら学校生活を送ってきました。その絆こそが、私たちの学校を特別な場所にしてくれるのです。1学期の終業式を迎えるにあたり、私は皆さんに対して一つのお願いがあります。それは「学び続けること」です。知識や技術は日々進化し、変化しています。社会も急速に変わり続けています。ですから、私たちも止まることなく学び続けることが重要なのです。自分自身を高めるために、積極的に学び、自己成長を続けましょう。

 ここに披露した式辞は、私が、生成AI「チャットGPT」に問い掛けて、わずか10数秒で返ってきたメッセージを基に作成したものです。 「チャットGPT」は、今年に入って急速に注目を集め、今月初めには国や県からも教育活動における取り扱いについて通知があったところです。皆さんにとって「チャットGPT」を初めとする生成AIの存在は、今後、避けて通ることができないものだと判断しています。今日は、冒頭の式辞作成を通して、私なりに「チャットGPT」について考えてみたいと思います。

 まず、「チャットGPT」の特徴ですが、AIが読み込んだ膨大なデータから、質問者の問い掛けに応じた内容について「中央値」を瞬時に返して来ます。逆に言えば「はずれ値」は返ってきませんし、読み込まれたデータの真偽の判断や読み込んでない情報を返すことは不可能です。これが現段階における「チャットGPT」の限界です。

 先ほど紹介した式辞ですが、率直に言って、ここには「山崎仁資」が伝えるというはずれ値は存在しないと感じました。確かに式辞としては、内容的にも、一つひとつの言葉を取り上げても問題はないでしょう。しかし、AIには、私自身の個性を活かしつつ、私が、今何に課題を見出し、何を皆さんに伝えたいと思っているのかを慮ることはできないのです。この経験を通じて、これから生成AIをより良く活用していかねばならないであろう皆さんにお伝えしたいキーワードは「選択」と「割り切り」です。

 これから、皆さんが課題に直面し、生成AIにその助けを借りようとする時、皆さんは、まずはどんな問いを立てるのかを「選択する」力、得られた結果を評価してどう行動したり、どう発言するのかを「選択する」力が必要になります。そして、その「選択力」を身に付けるには日々の鍛錬が求められるでしょう。一方で、「割り切って」しまえばAIが出した答えをそのまま受け入れ、多少の誤りがあってもどうせこんなものだと思ってしまえば、その場は凌ぐことができます。しかし、こんな形でAIに頼っていたら、人として進歩できるのでしょうか。「割り切る」のは容易く、「選択する」のは相当の努力と時間を要します。皆さんには、易きに流れて「割り切る」のではなく、苦しくても「選択する」道を歩んで欲しいと思っています。

令和5年度入学式に寄せて
 令和5年4月7日(金)に新入生31名の入学式を行いましたので、式辞を抜粋して掲載します。

  春もゆる艸の穂赤し たまきはる命のいろの
  炎なすかげのしづけさ 春もゆる艸の穂赤し

 本校校歌を作詞した昭和の大詩人である三好達治が「春の旅人」の中で詠うように、令和五歳の卯月の始まりは、満開の桜の時期を経て、本校の窓から眺望できる周囲の山々の草木が萌えて新緑に染まり、活力みなぎる青陽を感じる時節となりました。
 このような中、御来賓各位の御列席を賜り、保護者、御家族の御出席のもと、令和5年度静岡県立浜名高等学校定時制過程の入学式を挙行できますことに、教職員を代表しまして、まずは感謝とお祝いを申し上げます。

 さて、大正2年4月、現在の浜北文化センターのある貴布祢の地に開学した「北浜裁縫女塾」を起源とする本校は、昭和23年の学制改革により「静岡県立浜名高等学校」と改称されました。そして、60年前の昭和37年9月に現在の西美薗の地に移転し、今年で111年目を迎えることとなります。これまで、北遠を代表する伝統校として、中央、地方を問わず各界で活躍する34,000人を超える優秀な人材を世に送り出して参りました。

 ところで、本校が所在する浜北に所縁のある近世・近代における多士済々の群像を辿れば、天竜川の治水に尽力した新原の松野彦助、貴重書の蒐集と教育に寄与した宮口庚申寺の明厳祖麟、『みつの春』を著して当地の俳諧の水準を示した小松の袴田南素、同じく小松で将来の医学発展のため膨大なカルテ集『三省録』を残した村尾留器、貴布祢では、数学者として遠州に和算を広めた藤川春龍、日本画家として東京美術倶楽部で活躍した山下青厓、遠州織物の発展に尽くした木俣千代八、静岡銀行の前身となる同心遠慮講を興した平野又十郎など枚挙にいとまがありません。こうした方々の活躍は、当地の幅広い分野でのレベルの高さを世に知らしめました。

 こうした先人を育てた基盤の上に立脚し、本校定時制のスクールミッションには「学ぼうとする志を大切にする」が掲げられています。「学ぶ」とは、学問・芸術・スポーツなど人々が知性や心身を育むすべての営みを指しています。そして、その先には、社会に参画する者として、バランスの取れた人格と見識が育まれ、あふれる情報の中から自分の進む道を選び出し、必要に応じて自他を変革していける力が備わるものと認識しています。

 そして、そのための道しるべとして、本校には校歌の歌詞から採られた「志はるかなれこそ 若き日を かくこそ惜しめ」の校訓があります。皆さんは、各々が「志」という「なりたい自分」の姿を持っていると思います。限りある若き日、どうか皆さんには、寸暇を惜しんで貪欲に知識を吸収するとともに、高校時代にしか体験できない諸活動に積極的に取り組むことを望みます。

令和5年度1学期始業式に寄せて
 本日から令和5年度がスタートします。年度の初めに今年の干支の話をしようと思います。干支は、正確には「十干」と「十二支」の組み合わせで表され、60年で一巡りします。

 さて、今年の干支は、「癸卯(みずのとう)」です。この二文字には、それぞれ独自の意味が当てられています。「癸」は、十干の一番最後10番目ですが、物事の終わりと始まりを意味するとともに、「種子が計ることができるほどの大きさになり、春が間近で蕾が花開く直前である」という意味もあるとされています。また、「卯」は、もともと「茂」という字が由来であると言われ、「春の訪れを感じる」「冬の門が開き、飛び出る」という意味があるとされています。
 そこで、この二つの字の組み合わせである「癸卯」には、「これまでの努力が花開き、実り始めること」という意味が込められているそうです。

 皆さんにとって「癸卯」の年である2023年が、文字通り、努力が実を結んで大輪の花を咲かせ、実り多き一年であることを強く願って、第1学期始業式のあいさつとします。

令和4年度3学期終業式に寄せて
 大河ドラマ「どうする家康」の影響で浜松城界隈は大いに賑わっているようです。浜松城は、徳川家康が天下統一の足掛かりを掴んだ城であるところから、「出世城」と言われていますが、その伝統は引き継がれ、江戸時代の歴代城主22人のうちの5人が「老中」にまで昇り詰め、その他も幕府の要職に就いています。今日は、その1人である「水野忠邦」の話をしたいと思います。

 水野忠邦は、元は肥前国唐津藩6万石の城主でした。唐津藩には長崎警固という重要な任務がある一方、長崎貿易等によって得られる副収入があり、実際の経済力は公表されている石高の4倍はあったと言われています。有能で野心家だった忠邦は、いつしか国政を担いたいと思うようになりました。そこで、職務に精励するとともに、豊かな経済力を活かした政治活動を行って、異例の若さで「奏者番」という出世のカギとなるポストを掴みました。
 ところが、唐津城主の出世には限界があることを知ると、多くの家臣が反対するなか、当時としては異例の「異動願」を提出しました。この願いは希望通り受理されて、彼は正真正銘石高6万石の浜松城主になりました。これを境に彼は出世街道をひた走り、「大阪城代」、「京都所司代」などを経て、念願の「老中」に就任しました。
 幕府の中心人物となった忠邦は、「天保の改革」と呼ばれる政治改革に着手します。この改革は、当時から数えて約100年前の8代将軍徳川吉宗の政治を理想とするもので、質素・倹約の奨励、農業中心の閉鎖経済への回帰を目指しました。しかし、時代に合わないこの改革はわずか2年で頓挫し、忠邦も罷免されました。この政治は民衆から深い恨みを買ったようで、失脚した忠邦の江戸屋敷には石つぶてが多数投げ込まれ、浜松でも大規模な一揆や打ちこわしが発生しました。

 私は、常々、人間の評価はその人物が「役割を終えた」或いは「居なくなった」時に何が残ったかで決まると考えています。ここで忠邦を否定するつもりは毛頭ありません。彼は、江戸幕府が理想としてきた「質実剛健の気風」「農業社会の維持」を誠実に追い求めて行った生粋の武士であったと思います。しかしながら、時代はもはや後戻りできないところまで進んでいただけなのです。そして、結果として、絶対であった幕府の命令が絶対ではないことを多くの人々が認識し、この25年後に幕府は崩壊しました。

 間もなく、私たちは期待と希望に胸を膨らませた新入生を迎えることになります。皆さんは、これからの1年又は2年間で、後輩たちに一体何を残していくのでしょうか。私は、それを見ることが楽しみで仕方がありません。


水野忠邦(左)と浜松城天守閣(右)

令和4年度卒業式に寄せて
 3月16日(木)に令和4年度卒業式を挙行しました。式辞の一部を抜粋して紹介します。

 本校が所在する天竜川右岸の地には、小林駅から芝本駅付近に掛けて弥生から平安時代まで連綿と続く大集落が存在し、その規模は登呂遺跡を凌ぐものだと判明しています。そして、その周囲の河岸段丘や山と山の谷間(たにあい)には多数の古墳が分布しています。全国的にも珍しい平野や谷間に立地をしているこれらの古墳は、丸石を積み上げたもの、丁寧な加工を施した石室や重要文化財指定の副葬品を有するもの等があり、約1600年前には、当地に朝鮮半島に起源をもつ渡来系の知識層や技術者が住み着き、在地の住民とともに共存していたと愚考しています。彼らは争うことなく共に手を携え、高度な治水や土木技術を駆使して「暴れ天竜」の氾濫を制御し、本校所在地の地名の由来となった「美薗」と呼ばれる伊勢神宮の荘園となるまでに豊かな耕地を育て上げました。こうした出自や文化の違いに寛容な精神、新たな知識を真摯に学ぼうとする向学心を有する風土は、知らず知らずのうちに皆さんの体内に組み込まれ、「多様な個性・価値観を認め合う精神」、「将来に結びつく生き抜く力」「人との出会いや繋がりを大切にする心」を生み、人としての成長を促す血脈になったものと考えています。

 思えば、皆さんが本校で過ごした歳月は、まさに新型コロナウィルス感染症拡大との闘いの日々だったと思います。戦時中でさえなかった令和2年3月からの2か月半の長きにわたる休校措置、そして学校再開後も様々な制約の中で学校生活を送ることを余儀なくされました。そのような中で皆さんの営みを振り返ると、単位習得のため真剣に定期テストに臨む姿、辛いと言いつつ精一杯シャトルランに取り組む姿、マスク越しの友人の表情をうかがいながら歓談する姿、これまでの生活を振り返り自分の言葉で発表する姿、仲間と笑いながらボーリングに興じる姿、自らの苦悩を教職員に切々と語る姿、慣れない面接練習に緊張した面持ちで受け答えをしている姿、校長室で一人ひとり自分の思いを語ってくれた姿などを通じて、皆さんが本校で過ごす時間を本当に大切にしていることを実感しました。併せて、本校定時制の存在意義を私に改めて気付かせてくれました。皆さんの頑張りに対して、この晴れの日にお礼と拍手を送りたいと思います。

 ところで、広く社会に目を向ければ、新型コロナウィルスが感染拡大する以前から、社会の持続性を妨げる課題があることは十分認識されていました。世界レベルでいえば、地球の温暖化の危険性は1980年代には広く知られていましたし、地域レベルでいえば、静岡県の人口減少は2007年からすでに始まっていました。そうした中、今回のパンデミックは、社会・経済活動が一時、完全にストップするという前代未聞の事態を発生させ、これにより私達は、国や地域社会が世界と密接につながっており、「持続可能でない状態」が現実に起こりうることを実体験を通して学びました。さらに、ロシアの軍事侵攻がエネルギー・食糧価格の高騰を引き起こし、世界の地政学的リスクが地域経済の不確実性を高めていることも実感させられました。私たちは、地球環境の保全や人々の生命・衛生環境の維持、さらには地政学的なリスクへの対応など、持続可能な社会・経済を真剣に考えて構築していく必要性を、改めて強く認識させられたといえるでしょう。『静岡県経済白書2023』によれば、こうした状況を踏まえ、今、社会に求められていることは、柔軟で復元力があるレジリエントな産業や社会構造の構築、社会の変化に対応できるイノベーション力がある組織、インフラなどの必要適量化を図るストック志向による地域づくりだと述べられています。こうした難しい社会情勢の中、先に示した先達(せんだち)のDNAを受け継ぎ、本校での学びを経た皆さんなら、異なる考え方や行動に寛容でありつつ、柔らかな発想と困難に屈せず前向きに取り組む姿勢を持ってより良い未来を拓き、社会に参画できる人材となることを確信しています。

 結びに、本校の校歌を作詞した詩人の三好達治氏は、終戦後の焼け野原の中で世に送り出した「春の日の感想」で、次のように詠っています
  かくて新しい季節ははじまつた
  かくて新しい出発の帆布は高くかかげられた
  人はいふ日の下に新しきなし
  われはこたふ日の下に古きこそなし
 そこには、暗い戦時下が終わり、明るい新しい時代への希望が込められています。どうか皆さんも未来に希望を持ち、前を向いて粘り強く生き抜いていってください。皆さんの人生に幸多からんことを願い、式辞といたします。



(左)二本ヶ谷積石塚群
(右)涼御所古墳出土「金銅製透彫金具」(「神宮徴古館」HPより転載)

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