浜名高校 定時制の課程
 
学校案内  学校生活  進路状況  3修制  学校説明会  入試情報  保健室から  定時制の風景   学校のきまり
 
ホーム>学校案内>校長室より

  • 校長室より
  • 沿革
  • 経営計画
  • 自己評価
  • 浜名高校同窓会
令和4年度3学期始業式に寄せて
 令和5年の年頭にあたり、今日は奈良時代に浜北に住んでいた無名の人物2人を紹介したいと思います。

 2人を紹介する前に、まずは彼らが登場する背景について話します。奈良に都が置かれる少し前、日本は唐・新羅の連合軍と白村江で戦って大敗しました。その危機的な状況の中、国防の拠点として「大宰府」が置かれ、東日本の諸国を中心に「防人」が動員されました。
 その後、日本と新羅の両国はこの緊張状態を回避する努力をし、奈良時代の初めには友好的な関係となりました。そのため、動員されていた「防人」も停止され、彼らが九州から帰国する様子が『正倉院文書』にも残されています。しかし、友好関係は長くは続かず、再び両国の関係は悪化し、やがて日本国内では新羅との戦争まで計画されることとなりました。

 ここで、1人目が登場します。彼の名は「物部浄人」と言います。平城宮跡の発掘調査で出土した木簡に、その名前と素性が刻まれていました。それによれば、彼は麁玉郡(現在の浜北区北部と推定)の出身で年齢は31歳、758年に日本から渤海へ派遣された使節団の下級役人だったことが分かります。
 この使節は、新羅と戦争をするため、その北方にある渤海の協力を取り付ける役割を担っていました。この外交交渉は成功し、その功績で使節団の一人であった彼にも国から褒美が出されました。当然、国内は新羅との戦争に拍車がかかりました。

 このような緊張した日羅関係に合わせて「防人」も復活することとなりました。ここで、2人目が登場します。再動員された「防人」の中に、「物部浄人」と同郷の「若倭部身麻呂」がいました。彼は、『万葉集』に「我が妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて よに忘られず(私の妻はひどく私を恋い慕っているらしい。飲む水に妻の面影さえ映ってきて、どうしても忘れることができない)」という歌を残しました。

 防人は、任期3年ということになっていましたが、ひとたび行けば帰ってくることはないということが常識化していました。こうした中で、「若倭部身麻呂」は妻と別れて九州へ向かったのです。その悲しみはいかばかりだったでしょう。 結果として、新羅との戦争は、他の事情による国内の混乱で中止されましたが、その後の「若倭部身麻呂」の消息を伝える記事は見当たりません。

 世界を見渡すと今もどこかで争いが起こっています。令和5年こそ、1日でも早く平和が訪れ「若倭部身麻呂」と同じ思いをする人がいなくなることを強く望んでいます。


若倭部身麻呂の歌碑(万葉の森公園内)と若倭神社(浜北区宮口)

令和4年度2学期終業式に寄せて
 先日、今年の漢字が「戦」であると発表されました。選ばれた理由には、①ロシアのウクライナ侵攻や北朝鮮の相次ぐミサイル発射②円高・物価高・電力不足・感染症など生活の中で起きている身近な戦い③サッカーW杯や北京冬季五輪の熱戦④野球界での記録への挑戦等が挙げられました。

 これまでに選ばれた漢字を見てみると、最多は4回の「金」で、いずれも五輪開催年に選ばれています。また、過去に選ばれた漢字全体を眺めてみると、「愛」「命」「絆」など人と人との深い結び付きから生まれる字もありますが、全体としては「倒」「毒」「戦」「災」「暑」など自然災害や社会不安など負のイメージを連想させる言葉が多いです。どうやら人の心には、1年を振り返った時に、マイナスイメージの方が心に残り易い傾向があるようです。

 それでは、私にとって今年の漢字は何だろうかと問うてみると、「見」という字が思い浮かびました。私は、4月に赴任して来ましたが、本校で初めて定時制の勤務を経験しました。生徒の皆さんは、限られた時間や環境の中、様々な場面で活動しています。ですから、まずはこうした活動をできる限り見て歩こうと思いました。そして、その中から浜名高校定時制の在り様を知ろうと考えました。また、私自身も新たな職場になったり、家族に変化があったりして、改めて自分自身を見つめ直す1年になりました。

 しかしながら、この「見る」ということはそんなに簡単なものではないようです。なぜなら、「見えているもの」が本当に「事実・真実」とは限らないからです。だからこそ、私は「見ているもの」をよく観察し、その背後にあるものを想像しつつ、物事の本質や自分の在り様をしっかり見ていかねばならないと考えています。この年末年始は、この9か月間に自分が見てきたことを一人で整理する時間に充て、来年の学校や自分に活かしていけたらと思っています。

 年末年始、生徒の皆さんの多くは少しは自分の時間ができると思います。どうか自分のこの1年を見つめ直し、来る令和5年を見据える機会をもって欲しいと願います。とはいえ、冬休み中も正社員、アルバイトとして仕事に従事している皆さんの中には、そんな悠長なことは言ってはいられないと思っている人もいるでしょう。しかし、そんな切羽詰まった時こそ、一人になって今の自分をもう一度見つめてみるのもよいのではないでしょうか。

創立110周年記念式典に寄せて
本校は、本年4月に創立110年を迎え、10月28日(金)に記念式典を挙行しました。この折の式辞の中から、浜名高校誕生までの草創期の歴史について触れた部分を抜粋して紹介します。

 雨は蕭々と降ってゐる 雨は降ってゐる 馬は艸をたべてゐる
 今も校長室に掲げられている三好達治氏が本校へ送った色紙に書かれた「大阿蘇」の一節です。我が校は、彼の詩人が作詞した校歌を糧に歴史を重ね、本年4月に創立110年を迎えました。
 明治五年(1872)、国は「邑ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期」して「学制」を公布し、近代国家の教育の在り方として小学校教育の普及とともに産業教育や女子教育の重要性を示しました。この時代、「女性に学問はいらない」といった封建的な風潮があるなか、現在の浜北区では、「学制」公布の翌年に横田保によって「女子教育趣意書」が上梓され、女学校も設立されました。当趣意書には、読み・書き・算盤の定着に止まらず、実学や読書の奨励、家政学の必要性を説き、その影響によるものなのか、当地方の女子の就学率は国内でも高い水準にありました。
 このような地域の特色を背景に、当地方における女子の高等教育機関設立の機運が高まり、大正2年(1913)、平野千代平ほか三氏が発起人となって、本校の前身である「北浜裁縫女塾」が浜北区貴布祢の地(現在の浜北文化センター)に開校しました。そして、「高等女学校令」の改正を受けて、翌年には「北浜実科女学校」、大正8年(1919)には「北浜実科高等女学校」として学校の充実が図られました。
 地元有志の手による私立学校としてスタートした本校は、昭和初年になると地域から県立学校へ移管する動きが活発になりました。地域住民によるこうした運動は、アジア・太平洋戦争を挟んで10有余年に及び、「北浜高等女学校」への改称を経て、昭和22年(1947)「笠井高等女学校」と合併する形で悲願の県立移管を果たしました。学校名には、当時の浜名郡下で初めての県立学校が設置された郡内の人々の喜びと、当地域における教育発展の期待感から、郡名を冠する「県立浜名高等女学校」が選ばれたと愚考しています。そして、翌23年(1948)には、学制改革によって男女共学となり、「県立浜名高等学校」が誕生したのです。


北浜裁縫女塾(左)と浜名高校貴布祢校舎(右)

令和4年度2学期始業式に寄せて
 若かった頃に生徒が教えてくれた流行歌を紹介します。
 教えてくれた生徒は、家庭環境などを含めて困難な状況を抱えながら強く逞しく学校生活を送っていました。この生徒が、卒業を前にして「自分はいつもこの歌に励まされて来た」と話してくれました。曲名は、松山千春さんが歌った「大空と大地の中で」です。

 こごえた両手に息をふきかけて  しばれた体をあたためて
 生きる事がつらいとか      苦しいだとかいう前に
 野に育つ花ならば        力の限り生きてやれ

 このフレーズは、私の気持ちが凹んでいる時、今でもカンフル剤になっています。

令和4年度1学期終業式によせて
 今回は、本校全日制の中村教諭が森高校(現在の遠江総合高校の前身)勤務時代に生徒と作成した絵本『森の石松』の読み聞かせを行いましたので、そのあらすじを紹介します。

 森の石松は、森町の出身で清水次郎長という侠客の子分として有名です。石松は、正直者で曲がったことが嫌い、無邪気で人情が厚い、カッとなると手が付けられないという人物でした。彼は、次郎長親分の代参で四国の金刀比羅宮に行った帰路、浜松の地で都鳥一家との金銭トラブルに巻き込まれました。彼は、都鳥一家の襲撃を逃れて閻魔(えんま)堂という所に身を隠していたところ、追っ手の石松を侮辱する言葉にかっとなってお堂を飛び出し、命を落としてしまいました。
 石松の最後の場所となった閻魔堂は、本校の近くにある「道本(どうほん)の子安堂(閻魔堂)」だと伝えられています(写真)。

 夏休みは、学校がある時と異なる場面が多数でき、いろいろなことが起こります。しかし、石松のように一時の感情だけで行動することは決して良い方向にはいきません。特に、怒りに任せた言動には危険が付きものです。怒りが湧いたら深呼吸をして8つ、だめなら5つ数えてください。必ず怒りは収まります。

令和4年度入学式によせて
 大正2年(1913)4月に開学した「北浜裁縫女塾」を起源とする本校は、昭和23年(1948)の学制改革により「静岡県立浜名高等学校」と改称され、当初は、貴布祢の地、現在の浜北文化センターのある場所に所在しました。
 当地に今も残る「貴布祢の森」は、遠江を代表する国学者の内山真龍が編纂した『遠江国風土記伝』によれば、『万葉集』にある「伎倍乃波也之(きべのはやし)」に比定され、古くから貴布祢神社が祀られてきました。当地は、聖地としての信仰の場であるとともに、文化や情報の集約する場、村の会合の会場としての政治の場、祭礼等を通じた娯楽の場となり、地域コミュニティを構築するうえで重要な役割を果たしてきました。つまり、こうした地域における「活力」と「進取」の気概を期待される場所にいざなわれて行くように、本校の最初の学び舎は当地に必然的に建てられたものと感じています。
 こうした因縁を背景に貴布祢の地で展開された「躍進浜名」の営みは、約60年前の昭和37(1962)年9月に現在の西美薗の地に移転しても脈々と受け継がれ、北遠を代表する伝統校として、中央、地方を問わず各界で活躍する28,300人を超える優秀な人材を輩出して参りました。

 本校が、教育目標として掲げている「高きを求めて文武両道に励み、『かがやく知性・細やかな感性・強い意思・たくましい体』を有する『志を持った心豊かな人間』」となることは、平坦な道ではありません。その多面性は、まさに本校のルーツである「貴布祢の森」と相通ずるものがあると感じています。新入生の皆さんには、本校の3年間を通じて、「知・徳・体を兼ね備えた志ある人」となることを切に願っているところです。
 そのための道しるべとして、本校には校歌の歌詞から採られた「志はるかなれこそ 若き日を かくこそ惜しめ」の校訓があります。生徒の皆さんは、各々が「志」という「なりたい自分」の姿を持っていると思います。限りある若き日、どうか皆さんには、この多感な時期に、寸暇を惜しんで貪欲に知識を吸収するとともに、高校時代にしか体験できない諸活動に積極的に取り組むことを期待しています。



貴布祢の森と「伎倍の林」を詠った万葉歌碑

学校長挨拶
 本校は、1913年(大正2年)4月に開学した「北浜裁縫女塾」を起源とし、時代の要請の中で幾多の変遷を経て、1948年(昭和23年)4月、学制改革により「静岡県立浜名高等学校」と改称されるとともに、同年9月には定時制も設置され、現在に至ります。そして、創立110年を迎える北遠の伝統校として、これまで、中央、地方を問わず、各界で活躍する28,300人を超える優秀な人材を輩出してまいりました。

 本校の校訓である「志はるかなれこそ 若き日を かくこそ惜しめ」は、詩人の 三好達治 先生が作詞された校歌の一節から引かれたもので、本校生徒の歩むべき道標となるものです。生徒の皆さんには、この校訓のもと、教育目標として掲げる「高きを求めて文武両道に励み、『輝く知性、細やかな感性、強い意思、たくましい体』を有する『志を持った心豊かな人間』」への成長を目指し、学習、学校行事、部活動等を通じて、学校生活を生き生きと送り、一人ひとりが持てる力を存分に発揮してくれることを願っています。

 私たち教職員一同は、今後も、保護者の皆様からお預かりした大切なお子さんたちの可能性を伸ばすべく、様々な教育活動に精一杯取り組んでまいります。 そして、より良い教育が実践されるためには、学校、家庭、社会が連携を密にすることが何よりも大切だと考えています。

 保護者の皆様、同窓会等関係者の皆様、及び地域の皆様には、本校の教育活動に対し、なにとぞ御理解と、御協力をお願い申し上げます。

 なお、本校の学習や進路の状況、学校行事の様子、部活動での実績等につきましては、随時ホームページに掲載してまいります。是非御覧いただきたく、お願い申し上げます。
校 長 山 崎 仁 資

次へ