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令和5年度入学式に寄せて
 令和5年4月7日(金)に新入生355名の入学式を行いましたので、式辞を抜粋して掲載します。

  春もゆる艸の穂赤し たまきはる命のいろの
  炎なすかげのしづけさ 春もゆる艸の穂赤し

 本校校歌を作詞した昭和の大詩人である三好達治が「春の旅人」の中で詠うように、令和五歳の卯月の始まりは、満開の桜の時期を経て、本校の窓から眺望できる周囲の山々の草木が萌えて新緑に染まり、活力みなぎる青陽を感じる時節となりました。
 このような中、御来賓各位の御列席を賜り、保護者、御家族の御出席のもと、令和5年度静岡県立浜名高等学校全日制過程の入学式を挙行できますことに、教職員を代表しまして、まずは感謝とお祝いを申し上げます。

 さて、大正2年4月、現在の浜北文化センターのある貴布祢の地に開学した「北浜裁縫女塾」を起源とする本校は、昭和23年の学制改革により「静岡県立浜名高等学校」と改称されました。そして、60年前の昭和37年9月に現在の西美薗の地に移転し、今年で111年目を迎えることとなります。これまで、北遠を代表する伝統校として、中央、地方を問わず各界で活躍する34,000人を超える優秀な人材を世に送り出して参りました。

 ところで、本校が所在する浜北に所縁(ゆかり)のある近世・近代における多士済々の群像を辿れば、天竜川の治水に尽力した新原の松野彦助、貴重書の蒐集と教育に寄与した宮口庚申寺の明厳祖麟、貴布祢では、数学者として遠州に和算を広めた藤川春龍、日本画家として東京美術倶楽部で活躍した山下青厓、遠州織物の発展に尽くした木俣千代八、静岡銀行の前身となる同心遠慮講を興した平野又十郎など枚挙にいとまがありません。こうした方々の活躍は、当地の幅広い分野でのレベルの高さを世に知らしめました。

 こうした先人を育てた基盤の上に立脚し、本校のスクールミッションには「高きを求めて文武両道に励む」が掲げられています。「文武」とは、学問・芸術・スポーツなど人々が知性や心身を育むすべての営みの総称と私は捉え、前近代において一般化していなかった「文化」と対をなす表現であると考えています。すなわち「文武両道」の先には、現代文化の良き点を踏まえたバランスの取れた人格と見識が育まれ、あふれる情報の中から自分の進む道を選び出し、必要に応じて自他を変革していける力が備わるものと認識しています。

 そして、そのための道しるべとして、本校には校歌の歌詞から採られた「志はるかなれこそ 若き日を かくこそ惜しめ」の校訓があります。皆さんは、各々が「志」という「なりたい自分」の姿を持っていると思います。限りある若き日、どうか皆さんには、寸暇を惜しんで貪欲に知識を吸収するとともに、高校時代にしか体験できない諸活動に積極的に取り組むことを望みます。

令和5年度1学期始業式に寄せて
 本日から令和5年度がスタートします。年度の初めに今年の干支の話をしようと思います。干支は、正確には「十干」と「十二支」の組み合わせで表され、60年で一巡りします。

 さて、今年の干支は、「癸卯(みずのとう)」です。この二文字には、それぞれ独自の意味が当てられています。「癸」は、十干の一番最後10番目ですが、物事の終わりと始まりを意味するとともに、「種子が計ることができるほどの大きさになり、春が間近で蕾が花開く直前である」という意味もあるとされています。また、「卯」は、もともと「茂」という字が由来であると言われ、「春の訪れを感じる」「冬の門が開き、飛び出る」という意味があるとされています。
 そこで、この二つの字の組み合わせである「癸卯」には、「これまでの努力が花開き、実り始めること」という意味が込められているそうです。

 皆さんにとって「癸卯」の年である2023年が、文字通り、努力が実を結んで大輪の花を咲かせ、実り多き一年であることを強く願って、第1学期始業式のあいさつとします。

令和4年度3学期終業式に寄せて
 大河ドラマ「どうする家康」の影響で浜松城界隈は大いに賑わっているようです。浜松城は、徳川家康が天下統一の足掛かりを掴んだ城であるところから、「出世城」と言われていますが、その伝統は引き継がれ、江戸時代の歴代城主22人のうちの5人が「老中」にまで昇り詰め、その他も幕府の要職に就いています。今日は、その1人である「水野忠邦」の話をしたいと思います。

 水野忠邦は、元は肥前国唐津藩6万石の城主でした。唐津藩には長崎警固という重要な任務がある一方、長崎貿易等によって得られる副収入があり、実際の経済力は公表されている石高の4倍はあったと言われています。有能で野心家だった忠邦は、いつしか国政を担いたいと思うようになりました。そこで、職務に精励するとともに、豊かな経済力を活かした政治活動を行って、異例の若さで「奏者番」という出世のカギとなるポストを掴みました。
 ところが、唐津城主の出世には限界があることを知ると、多くの家臣が反対するなか、当時としては異例の「異動願」を提出しました。この願いは希望通り受理されて、彼は正真正銘石高6万石の浜松城主になりました。これを境に彼は出世街道をひた走り、「大阪城代」、「京都所司代」などを経て、念願の「老中」に就任しました。
 幕府の中心人物となった忠邦は、「天保の改革」と呼ばれる政治改革に着手します。この改革は、当時から数えて約100年前の8代将軍徳川吉宗の政治を理想とするもので、質素・倹約の奨励、農業中心の閉鎖経済への回帰を目指しました。しかし、時代に合わないこの改革はわずか2年で頓挫し、忠邦も罷免されました。この政治は民衆から深い恨みを買ったようで、失脚した忠邦の江戸屋敷には石つぶてが多数投げ込まれ、浜松でも大規模な一揆や打ちこわしが発生しました。

 私は、常々、人間の評価はその人物が「役割を終えた」或いは「居なくなった」時に何が残ったかで決まると考えています。ここで忠邦を否定するつもりは毛頭ありません。彼は、江戸幕府が理想としてきた「質実剛健の気風」「農業社会の維持」を誠実に追い求めて行った生粋の武士であったと思います。しかしながら、時代はもはや後戻りできないところまで進んでいただけなのです。そして、結果として、絶対であった幕府の命令が絶対ではないことを多くの人々が認識し、この25年後に幕府は崩壊しました。

 間もなく、私たちは期待と希望に胸を膨らませた新入生を迎えることになります。皆さんは、これからの1年又は2年間で、後輩たちに一体何を残していくのでしょうか。私は、それを見ることが楽しみで仕方がありません。


水野忠邦(左)と浜松城天守閣(右)

令和4年度卒業式に寄せて
 2月28日(火)に令和4年度卒業式を挙行しました。式辞の一部を抜粋して紹介します。

 本校が所在する天竜川右岸の地には、小林駅から芝本駅付近に掛けて弥生から平安時代まで連綿と続く大集落が存在し、その規模は登呂遺跡を凌ぐものだと判明しています。そして、その周囲の河岸段丘や山と山の谷間には多数の古墳が分布しています。全国的にも珍しい平野や谷間に立地をしているこれらの古墳は、丸石を積み上げたもの、丁寧な加工を施した石室や重要文化財指定の副葬品を有するもの等があり、約1600年前には、当地に朝鮮半島に起源をもつ渡来系の知識層や技術者が住み着いていたと愚考しています。彼らの高度な治水や土木技術は、「暴れ天竜」の氾濫を制御し、本校所在地の地名の由来となった「美薗」と呼ばれる伊勢神宮の荘園となるまでに豊かな耕地を育て上げました。こうした人々の自然災害に屈しない精神や高度な知識・技術に裏打ちされた研究心を有する風土は、知らず知らずのうちに皆さんの体内に組み込まれ、「高き」を目指す挑戦心、根拠に基づく確かな学力を生み、人としての成長を促す血脈になったものと考えています。

 思えば、皆さんが本校で過ごした3年の歳月は、まさに新型コロナウィルス感染症拡大との闘いの日々だったと思います。入学式直後から1か月半の長きにわたる休校措置、そして学校再開後も様々な制約の中で学校生活を送ることを余儀なくされました。そのような中で皆さんの営みを振り返ると、友人と歓談しながらの昼食を我慢して黙食を徹底する姿、できる活動を模索した学校祭で2年ぶりの観覧者に一生懸命接遇する姿、感染対策に配慮したスポーツフェスティバルで精一杯競い合う姿、生徒会活動の中で密を避けるためICT機器を駆使する姿、限られた条件の中で日々の部活動に取り組む姿、新たな入試制度と向き合い悪戦苦闘しながら自分の道を切り開こうとする姿など、下級生の範となる姿勢を多方面で見ることができました。こうした取り組みを通じ、皆さんは、コロナの感染拡大を最小限に食い止めて学校生活を継続するとともに、充実した学びの成果の現出と学校行事の活性化を実現しました。皆さんの頑張りに対して、この晴れの日に、改めて私はお礼と拍手を送りたいと思います。

 ところで、広く社会に目を向ければ、新型コロナウィルスが感染拡大する以前から、社会の持続性を妨げる課題があることは十分認識されていました。世界レベルでいえば、地球の温暖化の危険性は1980年代には広く知られていましたし、地域レベルでいえば、静岡県の人口減少は2007年からすでに始まっていました。そうした中、今回のパンデミックは、社会・経済活動が一時、完全にストップするという前代未聞の事態を発生させ、これにより私達は、国や地域社会が世界と密接につながっており、「持続可能でない状態」が現実に起こりうることを実体験を通して学びました。さらに、ロシアの軍事侵攻がエネルギー・食糧価格の高騰を引き起こし、世界の地政学的リスクが地域経済の不確実性を高めていることも実感させられました。私たちは、地球環境の保全や人々の生命・衛生環境の維持、さらには地政学的なリスクへの対応など、持続可能な社会・経済を真剣に考えて構築していく必要性を、改めて強く認識させられたといえるでしょう。『静岡県経済白書2023』によれば、こうした状況を踏まえ、今、社会に求められていることは、柔軟で復元力があるレジリエントな産業や社会構造の構築、社会の変化に対応できるイノベーション力がある組織、インフラなどの必要適量化を図るストック志向による地域づくりだと述べられています。 こうした難しい社会情勢の中、先に示した先達のDNAを受け継ぎ、本校での3年間の学びを経た皆さんなら、柔らかな発想と変革する勇気を持ってより良い未来を拓き、社会に貢献できる人材となることを確信しています。

 結びに、本校の校歌を作詞した詩人の三好達治氏は、終戦後の焼け野原の中で世に送り出した「春の日の感想」で、次のように詠っています。
  かくて新しい季節ははじまつた  かくて新しい出発の帆布は高くかかげられた
  人はいふ日の下に新しきなし   われはこたふ日の下に古きこそなし
 そこには、暗い戦時下が終わり、明るい新しい時代への希望が込められています。どうか皆さんも未来に希望を持ち、前を向いて粘り強く生き抜いていってください。皆さんの人生に幸多からんことを願い、式辞といたします。



(左)二本ヶ谷積石塚群  (右)涼御所古墳出土「金銅製透彫金具」(「神宮徴古館」HPより転載)

令和4年度3学期始業式に寄せて
 令和5年の年頭にあたり、今日は奈良時代に浜北に住んでいた無名の人物2人を紹介したいと思います。

 2人を紹介する前に、まずは彼らが登場する背景について話します。奈良に都が置かれる少し前、日本は唐・新羅の連合軍と白村江で戦って大敗しました。その危機的な状況の中、国防の拠点として「大宰府」が置かれ、東日本の諸国を中心に「防人」が動員されました。
 その後、日本と新羅の両国はこの緊張状態を回避する努力をし、奈良時代の初めには友好的な関係となりました。そのため、動員されていた「防人」も停止され、彼らが九州から帰国する様子が『正倉院文書』にも残されています。しかし、友好関係は長くは続かず、再び両国の関係は悪化し、やがて日本国内では新羅との戦争まで計画されることとなりました。

 ここで、1人目が登場します。彼の名は「物部浄人」と言います。平城宮跡の発掘調査で出土した木簡に、その名前と素性が刻まれていました。それによれば、彼は麁玉郡(現在の浜北区北部と推定)の出身で年齢は31歳、758年に日本から渤海へ派遣された使節団の下級役人だったことが分かります。
 この使節は、新羅と戦争をするため、その北方にある渤海の協力を取り付ける役割を担っていました。この外交交渉は成功し、その功績で使節団の一人であった彼にも国から褒美が出されました。当然、国内は新羅との戦争に拍車がかかりました。

 このような緊張した日羅関係に合わせて「防人」も復活することとなりました。ここで、2人目が登場します。再動員された「防人」の中に、「物部浄人」と同郷の「若倭部身麻呂」がいました。彼は、『万葉集』に「我が妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて よに忘られず(私の妻はひどく私を恋い慕っているらしい。飲む水に妻の面影さえ映ってきて、どうしても忘れることができない)」という歌を残しました。

 防人は、任期3年ということになっていましたが、ひとたび行けば帰ってくることはないということが常識化していました。こうした中で、「若倭部身麻呂」は妻と別れて九州へ向かったのです。その悲しみはいかばかりだったでしょう。 結果として、新羅との戦争は、他の事情による国内の混乱で中止されましたが、その後の「若倭部身麻呂」の消息を伝える記事は見当たりません。

 世界を見渡すと今もどこかで争いが起こっています。令和5年こそ、1日でも早く平和が訪れ「若倭部身麻呂」と同じ思いをする人がいなくなることを強く望んでいます。


若倭部身麻呂の歌碑(万葉の森公園内)と若倭神社(浜北区宮口)





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